『挫折だけが人生さ』と言うような中年男が感じる、故郷への慈しみを発信します。


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   こけし人形

 
久しぶりに降り立った鷺宮の街は、八月の終わりにも拘わらず、西日を浴びて真夏の夕暮れを感じさる。故郷では、小川の岸辺に生えたススキの穂が、山から吹き下ろす風にそよいでいたのに。嬬恋とは大分季節が違う。見慣れた定食屋の換気扇からは、何時もどおりに煙があがり、買い物篭をぶら下げた人々が行き交う。数台の自転車がベルを鳴らしながら、踏み切りを渡っていく。警報機が鳴る。車や人々の動きが止まり、上りの電車が入ってくる。

 夏休みが終わり、私は再び上京した。一ヶ月以上に及ぶ故郷での生活で、田舎の少年に戻った感覚が、街を歩いているうちに徐々に研ぎ澄まされていく。帰郷の前日に寄った床屋の店先で、主人が柄杓(ひしゃく)で水を打っていた。私はこんにちはと声を掛ける。主人は愛想よく返事を返す。まさか私の顔を覚えてはいないだろうに、流石は商売人だ。

 私はバスで終着駅まで出て、そこから上野行きの急行列車に乗った。バッグの中には駅前の土産物屋で買った小さな「こけし人形」が入っている。父親が下宿先に持って行くようにと、裏の畑でとれた野菜を荷造りしてくれたが、私は冷酷にもそれを断った。片手にバッグ、もう一方の手に重そうな包を持って上野の駅に降りるなど、それこそイナカッペではないか。私は2学期中には何とかカッペを卒業したと思っているのだ。

 玄関の戸を開ける。ベルが鳴る。誰もいないようだ。私は急な階段をのぼり3畳一間に入る。1ヶ月以上留守にしたので、埃っぽいと思っていたのだが、夏の空気が澱む事も無く、部屋はすっきりとしていた。大家の長女に、たまには窓を開けて空気を入れ替えておいて下さいと頼んでおいた。彼女が部屋に入っていいのかと聞くので、お願いしますと答えたものだ。部屋には机とコタツのテーブル位しかないので、誰に見られても平気である。

 階下でベルが鳴る。少し間があって、帰ったのと懐かしい声がした。私はバッグから土産の箱を取り出し階段を降りる。私が挨拶もしないうちに彼女が笑い出す。真っ黒に日焼けして元に戻ったじゃないと言う。確かに、強い紫外線を浴びて私の顔は3月に上京した当時に戻っていた。私は少しはにかみながら「こけし人形」の入った小さな箱を差し出す。長女が怪訝そうな顔をして何と尋ねる。上州のこけしで結構有名なんですと私は答える。空気を入れ替えて貰ったお礼ですと付け加える。彼女が掃除もしておいたわよと笑う。
 一瞬の静寂。
  
   2006/12/03
 26 秋雨前線
 27 イナカッペ
 28
 29 油蝉
 30 折込み
 31 カルピス
 32 銀杏
 33 大丈夫
 34 赤トンボ
 35 急行列車
 36 寒暖計

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