寒暖計
頬に感じる冷気で目が覚めた。起きだして縁側のカーテンを開けると、イチイの葉先に降りた霜が処女光を受けてキラキラと輝いている。窓ガラスから忍び込んでくる大気は、今年一番の冬を感じさせる。昨夜、天気予報が寒気団の到来を告げていた。首をすくめて寒暖計を見ると、1度を示している。古い家で建て付けが悪いと言っても、家の中で氷点下に近いと言う事は、外ではマイナス5度か6度になっているのだろう。水道の凍結が心配になり台所の蛇口を捻る。案の定水が出ない。慌てて電熱線を差し込む。本格的な冬の朝だ。
一昨日、馬鈴薯は発送した。今年は例年に比べて暖かかったので、今まで家の物置に積んでおいたが、そろそろ限界だと感じて宅配の営業所に持ち込んだ。数年前、12月に入るまで放っておいて、窓際を一分凍みさせてしまった。嬬恋の凍みは尋常でないので油断が出来ない。そうかと言ってあまり早く発送すると、温かい都会では芽が出てしまう。芽が出てしまえば、友人・知人の奥さん方はそれを欠いてまでは料理をしないだろう。
送付状を書いていると友人達の顔が浮かんでくる。それは私にとって一番印象に残っている場面の顔だ。学園祭で30キロを夜どうし歩き、御茶ノ水のホームで始発を待っている友の顔であったり、新宿ゴールデン街の一角でコップを片手に議論する友の顔であったりする。私の心の中でいつになっても消える事の無い仲間の顔だ。今年は19枚ほど書いた。これは昭和47年に私が帰郷して以来続いている。12月が近づくと嬬恋から馬鈴薯が届く。私が故郷で元気でやっている証でもある。
こんな日常が30数年続いている。結婚して子供が生まれ、その子供達を育てて人並みに生きてきた。人に自慢することも恥じることも無く生きてきたのだが、人生は時として不条理なことに出くわせる。
先日、降って湧いたような話で、私の住んでいる一帯が「土砂災害警戒特別地域」に指定されると言う説明があった。寝耳に水の話である。迂闊にもこんな法律が平成13年度に施行されているとは知らなかった。調べて見ると、警戒特別地域の指定を受けると、建物の新改築に厳しい構造規制がかけられ、まともな家屋など出来る筈が無い。結局、警戒特別地域に指定された地域の住民はそこから出て言って下さい、と言う事に他ならない。
この地域は神前沢と言う名のとおり、歴史ある神社が社を構え、江戸時代の寺子屋の跡があり、最初の村役場もここにあったと聞いている。100年以上に渡り、人々が平穏に暮らしてきたのに、ある日突然、法律ですからと一遍の説明で事を進めようなどと、暴挙と言う外は無い。年に一度、友人達に特産物を送る事を生きがいにしている庶民に、いたずらに不安を与えることが法律の趣旨だとは、私にはとても思えない。
他人事のように説明していた役人方に聞きたい。私達が三代も四代も生きてきた土地から、将来出ていかざるを得なくなる現実とその心の痛みを理解できますか。
2006/11/25
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