大丈夫
寝苦しい夜が明ける。二つの窓から流れ込む大気は、冷めやらぬ灼熱の名残である。日が落ちると肌寒くなる嬬恋に育った私にとって、初めての都会の夏はなかなか馴染めない。タオルケット一枚で寝るのだが、夜中に気が付けば全身にべとつくような汗。蒸し風呂のような夜は初めての経験だ。熟睡出来ずに一晩に2回、3回と目を覚ます。驚くのは窓を開け放しておいても、蚊や昆虫が殆んど入ってこないと言う事だ。家の周りにも緑はあるのだが、虫達が孵化するためには充分では無いらしい。
私はじめつく布団から逃れるように起き上がる。そのまま布団を畳み押入れに放り込む。平日はそれを干す事も出来ない。少し動いて目覚めてくると、昨夜の一件が私の頭をよぎる。主人が言いたい事は解っていた。いつかそんな事が起こるだろうとは想像していた。しかし私にはその気は無かった。ただ下宿先の長女が気を使い、止めてくれた事が酷く嬉しかった。昨夜から少し気持ちが浮ついている。
私は朝食の準備に階下に降りる。台所では既に長女が後片付けをしていた。彼女は私に気づくと、昨日はゴメンネと軽く右手を上げて私に謝る。洗剤の小さな泡が彼女の手の平で弾ける。私は平気ですと再び答える。そして「東洋の魔女」は強いですねと続ける。昨夜も国際親善試合でライバルに圧勝した。私の好きな宮本選手も画面の向こうで躍動していた。金メダルを取れると良いねと彼女が私に語りかける。
私は彼女に教えて貰ったハムエッグを作る事にした。本来だと夕食の料理だが、毎日がこう熱くては堪らない。少しは栄養を付けようと考えたのだが、自分で作れる料理はこれ位である。小さなフライパンに油を敷き、ハムを載せて卵を落す。水を少々加えて蓋をすれば出来上がり。彼女は台所を離れずに私の手つきを見ている。そして、もう良いんじゃないと言う。私はガスを止め、ハムエッグを皿に移す。それを彼女に見せてやる。彼女はにっこり笑って頷く。そして安心したように私に背を向ける。
その後ろ姿に私の気持ちが昂ぶる。集会に出ても良いです。言葉が思わず私の口を付く。彼女が驚いた様子で振り返る。私を見つめて無理しなくて良いのにと言葉を返す。大丈夫です。話を聞く位平気です。夏休みでも終わったら誘って下さい、と私は彼女に念をおす。居間から長女を呼ぶ主人の声がする。彼女は黙って居間に戻って行く。私もハムエッグを片手に3畳一間に掛け上がる。
この一言が鷺宮を出る一因になろうとは夢にも思わなかった。ラジオが今日も熱くなる事を伝えている。
2006/11/07
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