油蝉
シマラヤ杉に囲まれた校門を入る。玄関は化粧しているが戦前に建築された木造3階建ての校舎は、一歩脚を踏み入れると防腐剤の匂いが鼻を付く。私は気分の晴れないまま下駄箱に向かう。いつもより30分程早く登校した。普段は駅から校舎まで歩いているのだが、その日はバスに乗った。歩いて登校する気力が起きなかった。昨夜、同級生のTの訪問で少し気は楽になったが、心の中には相変わらずやり切れない思いが残っていた。
私が台所に下りて行くと、朝食の支度をしていた長女が、学校で何かあったのかと私に聞く。どうしてかと聞き返すと、彼女は続ける。私が昨日から浮かない顔をしている上に、帰宅途中の同級生が尋ねてきたので、何かあったのかと思ったと言う。なかなか感が鋭い。私は、些細なことで喧嘩をしてしまったと打ち明ける。彼女は改めて私の顔を見ると、そんな度胸があったのかと笑い出す。結構やんちゃなんだと付け加える。私は彼女の笑いに気持ちが一瞬緩んだが、相変わらず気は晴れない。
私は下駄箱に靴を投げ込み、渡り廊下を教室に向かう。約束の時間には未だ少し時間があったが、教室にはTがいた。都大会の予選が近づき、早朝練習をしているようだ。Tはトレーニングウエアである。うっすらと額に汗を滲ませている。私を待っていてくれたのだ。Tは私を見ると、昼休みに寺の境内で手打ちをすると告げる。そして早朝練習に戻って行った。私一人の教室に朝の光が射し込んでくる。木製の窓枠に仕切られて、光が何条にもなって机や椅子で跳ねている。
校舎に隣接して寺があった。都会とは思えない広大な境内は、ケヤキの大木で覆われていた。油蝉が鳴いている。上京して4ヶ月が過ぎようとしている。夏休みも近い。休みになれば直ぐに田舎に帰ろうと思っている。まだ東京の蒸し暑さには慣れない。私は購買で買ったパンと牛乳で昼食を手早く済ませ、一足先に境内にいた。午前中、私は喧嘩相手のAを無視していた。彼も意識して私を避けているようだ。休み時間には数人の仲間が声を掛けてくれたが、私は彼らには強気を装っていた。
Tと喧嘩相手が参道を私の方に歩いてくる。ケヤキの隙間から射し込む夏の陽を受けて、2人の足元から陽炎が立ち昇っている。黒い学生ズボンが揺れている。2人の姿が近づいてくる。Aの顔は少し固い。私も硬い。風は無い。油蝉の鳴き声が響き渡る。少年の夏、半ズボンにランニングシャツで蝉を追い回した故郷の森が頭をよぎる。気が狂いそうな程に鳴いていた。私は立っている。ケヤキの大木に囲まれた寺の境内に。
2人が揺れながら近づいて来る。
2006/10/09
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