『挫折だけが人生さ』と言うような中年男が感じる、故郷への慈しみを発信します。


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   イナカッペ
 
 3畳一間で横になっている。夏の日の夕方。粘りつくような夜のトバリがゆっくりと窓の外を覆いだした。私は夕食の準備をする気にもなれず、ラジオから流れてくる名も知らない曲に身をゆだねている。静寂を破るように玄関のベルが鳴る。長女が私を呼ぶ。私はラジオのスイッチを切り、部屋の扉を空ける。彼女は階段に身を乗り出すようにして、学校の友達が見えたと私に告げる。誰だろう。それまで同級生が下宿先を尋ねて来たことは無かった。何しろ3畳一間である。人を誘う事などおこがましい。

 重い足で階段を下ると玄関には同級生のTが立っていた。帰宅途中なのか学生服姿で、カバンとバットケースを下げている。話があるので寄ったとTは言う。彼は以前の私と同じように坊主頭である。先輩のいない私達の高校で、Tは野球部のキャプテンだ。家は私の下宿から十数分の所にあると彼から聞いていた。Tとは苗字のアルファベットが同じなので席が近かったが、クラスで特に仲が良いと言う訳では無かった。しかし、彼は仲間の面倒見が良く、クラスの誰からも慕われていた。

 長女が、上がって貰ったらと声を掛ける。その声に押されて私は彼を3畳一間に招く。Tは、一人暮らしか羨ましいと言いながら裸のコタツに脚を投げ出す。私は彼の突然の来訪の意味をうすうす感じていた。Tは私の故郷について尋ねる。私も故郷にはTと言う苗字が多くあり、母の実家は同姓だと話す。階段で長女の声がする。私が顔を出すと彼女がコップ2つを渡してくれる。サイダーだと言う。コップの中で小さな泡が弾けている。
 Tが真顔になって切り出す。今日の一件は俺に任せろ、話を付けてやると言う。Aは私が帰った後も大分興奮していたらしい。田舎野郎になめられてたまるかと、喚いていたようだ。Tは続ける。Aは気の弱い男だが、中学時代の仲間がいる。お前は一人だ。早く手打ちをした方が賢明だ。私もそう思っていた。Aが嫌いでは無かったし、何故こんなことになったのか、私にも解らなかった。

 その日の昼休み。数人の仲間が教室の片隅で雑談をしていた。私はその横で彼らの話を聞きながら、夏の日射しを受けて萎えたイチョウの木を眺めていた。仲間達は休みに渋谷の街に出かける話をしていた。渋谷。VAN。一度片隅に降りた街。私は立ちあがり、彼らの後ろから割り込むように、一緒に連れて行ってくれないか、渋谷は始めてなんだと声を掛けた。すると、渋谷はお前みたいなカッペの行くところでは無い、と言い放つ奴がいた。Aだった。回りの仲間は笑っている。

 この一言に血が上る。イナカッペなりに少しは自信を持ってきたのに。突然、私の中で何かが切れた。私はAに向かって叫んだ。カッペで結構。ふざけるな、このビヤダル野郎。便所の鏡に自分の姿を写して見ろ。Aの顔が見る見る赤くなり、唇が震えるのが解った。私は身構える。Aの寸胴の体が私に向かって跳ねてくる。仲間が辞めろと叫ぶ。机が倒れる。授業の始まるベルが鳴る。

 俺に任せろ。明日一番で話を付けてやる。Tが繰り返す。私は彼の日焼けした顔を見つめ頭を下げる。そして長女がくれたサイダーを一気に飲み干す。胸が熱くなる。

 2006/09/25
 26 秋雨前線
 
 
 

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