8月16日
オミナエシや色鮮やかなアスター菊を持ち、私は先祖が眠る共同墓地に向かう。8月16日朝、集落の中ほどにある墓地には、花束や線香を携えた顔見知りの人達が三々五々と集まってくる。お盆の明ける日。私は墓地の入り口で新聞紙を燃して線香に火をつける。横では老婆がマッチを擦っている。旨く火が付かないようだ。目の前の六地蔵から何条もの煙がフワフワと上がっている。おはようと声がかかる。私は煙りだした線香を片手に、備え付けの水道から真鋳のヤカンに水を汲む。線香の煙が陽炎のように揺らめく。昇り始めた太陽が墓地全体に淀み、今日も蒸し暑い1日を予感させる。
私は我が家の墓に立つ。数日前に草を刈り墓石を拭いた。迎え盆の1日前である。周囲の墓はきれいに刈られ、お盆を迎える準備が整っていた。私は集落で最後に近かったようだ。墓の下で父親が相変わらずお前はと、言っているような気がした。何事にも用意周到で几帳面な父親の性格は、私には受け継がれていない。我が家の墓地には2つの石碑が並んで建っている。親戚の誰かが上げてくれたか、線香が数本供えられていた。私は墓石にヤカンの水をかける。持参した花束を4つに別け、供える。花の色が御影石に映え、急に華やかに感じられた。
墓石の1つには戦死した伯父2人が刻まれている。長兄は陸軍軍曹であり、次兄は兵長である。祖父が死亡通知でも元にして作ったのだろう。長兄はニュウギニアで戦死、次兄は北部ルソン島において戦病死と刻まれている。子供の頃、お盆が近づくと祖父と父が話していた。早く2人の石塔を建てなければと。私が小学校に上がる頃には、戦死者の石碑が次々に建立され、2人も戦死している我が家では、肩身が狭かったに違いない。後で母から聞いたのだが、祖父は世間並みに石碑を建立するため、石屋に前金を払ったのだが、石屋が倒産してしまったのだと言う。
私が小学校4年の夏、祖父が好きな酒を一時止めた。当時戦死者の遺族には幾ばくかの弔慰金が支給されていた。2日に空けず酔ってくる祖父は、その金を酒に代えていたに違いない。国のためとはいえ、3人の息子の内上から2人を失った怒りや悔しさは、酒ででも紛らわすしか術が無かったのだろう。お盆が近づいたある日、祖父が私に漏らした一言を私は今でも忘れない。死んでから十年も経つのに、人並みに石塔も建ってやれないのでは、死んだ2人に申し訳ないと。翌年のお盆には我が家にも立派な石碑が建立された。
その祖父の死後、父が墓地を整備する事になった。気真面目な父は、祖父の建てた兄2人の石塔を処分し、滝沢家代々の墓として1つにまとめようとした。共同墓地なので周囲に遠慮をしたのだろうが、これには私が反対した。私には苦しい生活の中で、好きな酒を絶ってまで、祖父が建てた伯父達の墓を、処分する事は許せなかった。それも周囲より遅れて建立されたものだ。私は父に猛然と反発した。そして、我が家の墓地には石碑が2つ並んで建っている。私は2つの石碑に手を合わせる。父や祖父母、顔を知らない私の伯父。
お盆の明け。肌を射す太陽の光が勢いをます。線香の煙が漂う。
2006/08/20
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