『挫折だけが人生さ』と言うような中年男が感じる、故郷への慈しみを発信します。


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  銭湯

 
3畳一間の下宿から北側に数分歩いて、広い道路を横断すると銭湯があった。そこはもう練馬区である。当時、東京では風呂付きの家庭は少なく、当然私の下宿先にも風呂は付いていず、夕方になるとタオルに石鹸とシャンプーを包んで、銭湯に行った。しかし、不思議な事だが、田舎ではどの家にも風呂があった。私が小さい頃は、家の前を流れる小川から風呂水を汲むのが子供達の仕事だった。夕方になると姉達と一緒に、バケツで風呂桶まで水を運んだものだ。私が小学校に上がった翌年には、地域に水道が引かれ、風呂も簡単に焚けるようになっていた。憧れの東京での銭湯。これに慣れるには少し時間を要した。身も知らぬ人と一緒に風呂に入る。鏡を前に横一列に並んで体を洗う。隣のシャワーが飛んでくる。赤児の泣き声がする。極彩色に仕上げられた富士山を眺めながら湯船につかる。混雑している時は、肘が他人の肘に触れ、脚を伸ばすことも出来ない。
 私が最初に銭湯なるものを知ったのは、中学3年の夏休みである。私が3年間熱中したバレー部は、郡代表として県大会に出場していた。男女共にである。私達は2回戦で敗退したが、優勝候補に上げられていた女子は順当に勝ち進み、2日目の試合に臨む事になった。女子の部員には旅館が手配され、私達には帰りの切符が渡される事になったが、監督が何を思ったか、実家に泊まって翌日女子の応援をするようにと言い出した。私が主導して練習をボイコットし、泣かせた新米の女性教諭である。その結果、私は担任の元青年将校から皮のスリッパでビンタを食らう羽目になっのだが。
 二十人近いニキビ面の一団である。泊める決断をするには相当勇気がいったに違いないが、兎も角、私達は監督の実家に泊めて貰うことになった。最初に監督から出た指示は、銭湯に行ってきなさいである。私達は監督の実家から少し離れた銭湯に連れて行かれた。夏の日の夕方、誰もが初めてであり、興味津々であった。番台で監督に料金を払って貰い、ロッカーに向かう。しかし、その後が進まない。人前で裸になるのが恥ずかしいのか、シャツを着たまま風呂場を覗きこむヤツ。後輩のパンツを引きずり下ろそうとするヤツ。無頼の輩である。他に客がいないので、番台のおばさんも大目に見てくれたのだろうが、山猿丸出しだ。それでも流石キャプテン。意を決して衣服を脱ぐと、番台で借りたタオルを首にかけて風呂場に入って行く。それを見て私達は呪縛が解けたように、我先にとタイルに足を取られながらも、湯船に飛び込んでいった。これが銭湯の最初の経験である。
 それから8ヶ月。銭湯は私の生活に欠かせないものとなった。学校が終わり、夕食が済むと私は銭湯に出かける。番台のおばさんとも顔馴染みになり、見覚えのある人も多くなる。大家一家もそれぞれに銭湯に出かける。父親が最初で、大概長女が最後である。彼女は食事の後片付けをしてから、銭湯に向かう。たまに私が遅くなると、洗面器を脇に抱えた彼女に出会う。私はタオルに石鹸とシャンプーを包んでいる。道脇の街路灯がシルエットのように彼女を映し出す。遅かったねと彼女が声を掛ける。すれ違うと、石鹸の匂いが流れてくる。一瞬の静寂。
 
 2006/08/15


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 02 3通のメール
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 04 母の入院
 05 3畳一間
 06 母を見舞う
 07 牛乳とクリームパン
 08 家紋
 09 下宿先は
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