『挫折だけが人生さ』と言うような中年男が感じる、故郷への慈しみを発信します。


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  梅雨の最中

 
今にもずり落ちそうな鉛色の雲の下を走り、2週間振りに母を見舞った。河川敷の柳が所在も無さそうに枝を垂れている。最初に見舞った時には、若葉が目に眩しい位だったから、時が経つのは早い。嬬恋は薄日が射していたが、病院に近づくにつれ、梅雨特有の重そうな雲が、フロントガラス越しに迫ってくる。夏至だと言うのに、太陽のカケラさえも見えない。先週は姉に甘えて、病院に顔を出さなかった。リハビリを続けていたら熱を出し、点滴を始めたので、今週は来なくて良いと言う。尤も、私が病室を訪れても、母の傍に座っているだけで、食事の世話などは姉がやっている。私は顔を出すだけである。
 病院に入る前に姉の家に寄った。姉の家から病院までは車だと数分の距離である。ペーパードライバーの姉は、一日3回自転車で往復している。私は、朝収穫した大根とほうれん草を渡す。初めてにしては上出来だと姉は私を誉める。私が初めて作った野菜だから、出来れば母に食べさせてやりたいと姉が続ける。馬鹿な事をと私。姉よると、熱が下がって点滴がいらなくなったので、少しは楽になったらしい。ただ、ここ何日か余り嬬恋の事を話さなくなったと言う。それが少し気がかりだが、私は姉より一足早く病院に向かった。
 病室に入ると母は眠っていた。目を閉じて時々プーっと口から息を吐き出す。白髪が伸びて、襟元に絡み付いている。ベッドにもたれるようにしているのは、いつもと同じである。どうも角度が決められているようだ。母が気持ち良さそうに眠っているので、起こさず横の椅子に座って、暫く母の顔を眺めていた。以前、見舞いに来た母の従妹達が、母は祖父母と折り合いが悪く、若い頃は何度も家を飛び出すような苦労もしたが、5人の子供をそれぞれに育てておいたので、今では本当に恵まれていると話していた。私が小学校の高学年の頃まで、母と祖父は時々やりあっていた。祖父は私には優しく、風呂はいつも一緒で、私の背中を流しては筋肉が付いたと喜んでいた。今にして思えば、3人の息子のうち2人を戦争で亡くした、やり場の無い怒りや悔しさを母にぶつけていたのだろう。しかしながら、勝気な母は祖父に負けていなかったような気がする。
 母が目を覚ました。私が声を掛けてもキョトンとしている。寝ぼけているのだろうか。私はもう一度母を呼ぶ。ようやく私に気づく。そして何時だと聞く。11時半だと教えると、母は夕方かと思ったと答える。もう少しすれば昼食だと話すと、姉は来ないのかと言う。段々意識がはっきりしてきて、私はホットする。昨夜妹は来たかと尋ねると、来ないと言う。姉は来たと行っていたが。私は、隣家のおばさんの話を持ち出す。母が日常で一番世話になっていた人である。そうかと言うだけで反応が鈍い。入院から3ヶ月近く経って、嬬恋の夢を見る事も無くなったのだろうか。夢が叶わないと言う事を知ったのだろうか。梅雨が明ける頃、母はどうしているだろう。私は母を見る。そしてその場に立ち尽くす。

 2006/6/26
 01 手作りのホームページへ
 02 3通のメール
 03 エナメルの上履入れ
 04 母の入院
 05 3畳一間
 06 母を見舞う
 07 牛乳とクリームパン
 08 家紋
 09 下宿先は
 10 一喜一憂
 11 電報
 12 根無し草
 13 中野区鷺宮

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