中野区鷺宮
列車が上野駅に近づくと、車窓から満開の桜が流れるように目に飛び込んできた。いよいよ上京である。私は、神奈川に住む姉が合格祝に送ってくれた、大きな布製のバッグに洗面用具や下着類をつめ、真新しい学生服に身を包んでいた。学生服のポケットには、前の晩に父親から渡された、数枚の一万円が入っている。兎も角、物見遊山に行く訳ではなく、生活が出来さえすれば良い、と思っていたので、荷物はそれだけである。姉から、東京では金さえ出せば必要なものは直ぐ揃えられるから、と言われていたので無理はしなかった。
長野原発の急行列車は、4時間近くかけて上野駅に着いた。私は胸のポケットに手をやり、財布があるのを確認してホームに降りる。上野の駅は騒然としていた。就職や入学で多くの若者が上野を目差してやってくる。誰もが東京での生活に夢や期待を抱いて列車を降り立つ。何十万、何百万もの男女がここから東京の街に散って行ったに違いない。そして、夢を叶えた人間は何人いるのだろう。反対に夢破れて、この駅から故里に戻った人間は一体どれだけいるのだろうか。私は肩からバッグを吊るして、人込みのプラットホームを歩く。バッグが人にぶつかり後ろに引かれる。私はそれを胸に抱く。そして、階段を上り山手線のホームに向かう。そこで池袋方面に乗り、高田の馬場で西部新宿線に乗り換えて、鷺宮駅で降りる。これは姉が手紙で書き送ってきたルートである。二回の試験と入学手続きで上京しているので、東京にも大分慣れてきた。
鷺宮の駅には姉が待っていて、間借り先まで連れて行ってくれる事になっている。姉が上野駅まで迎えに出ると言うのを断ったら、乗り換えのルートを送ってきたと言う訳である。それともう一つ、手紙には重要な事が書かれていた。万が一、鷺宮の駅で姉と会えなかった場合、大家に電話する事。電話番号。そして赤電話の使い方が解説してあったのだ。先ず受話器を上げる。ツーと音がしたら十円玉を投入する。03から番号を回す。今となれば、笑いたくなるような話だが、当時殆どの家には電話が無かったし、赤電話なるものも田舎では普及していなかった。流石に冷静で洞察力に富む長姉である。幾ら大人ぶってはいても、坊主頭の15の少年である。落ち合えなかった時の私の狼狽振りが、目に浮かんだに違いない。
鷺宮の駅に着いた。改札口の向こうで姉が手を振った。改札口を出ると、数軒の食べ物屋の看板が目に入った。間口は狭い。窮屈そうに肩を並べている。換気口から煙が僅かに噴出している。「定食屋」の字が半分消えかけた看板。昼下がり。これから私が生活する街。姉の後ろについて、間借り先に向かった。姉の話では、午前中必要な物を買い揃え、掃除もしておいたと言う。本当にこの姉には世話になった。姉がこちらにいなければ、私の東京暮らしは実現しなかったかも知れないと思う。
鷺宮の街は、広い道路を挟んで両側に商店が並んでいる。八百屋に乾物屋。そして道路まで占拠している雑貨屋。この街で私の東京での生活がスタートしようとしていた。昭和38年3月末。
2006/6/19
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