電報
冬ばれの朝、白い息を吐きながら私は登校する。中学校は歩いて十数分のところだが、ダラダラと上っているので、校舎につく頃には少し汗ばんでくる。道路に雪の無い時は自転車で通っていたのだが、流石に受験を控えてそれは遠慮していた。教室ではストーブが赤々と燃えており、私は窓際の最後列に座る。ストーブが放す熱は余り届かないが、授業中先生の目を盗んで、瞑想に耽るのには最高の席である。
目をやるとそこはグランド。所々土が覗いているが、まだまだ雪の下である。その雪の下には入学以来3年間の、「僕ら」の悪行が眠っている。悪行と言えば、学校での楽しみは何と言っても、給食とクラブ活動であった。何故クラブ活動かと言うと、時々給食の余りが頂けるからだ。練習に疲れると僕らは調理場を覗く。すると心優しいオバサンがいて、余ったパンなどを出してくれるのだ。それを山分けして、渡り廊下の陰で貪るのだが、当然下級生には回らない。監督である新米の女性教諭の目を盗んで、頂くと言う寸法である。すきっ腹を抱えていた「僕ら」の頭の中は、何時も食べ物で一杯であった。これで何とか倒れずに家まで帰れると言うものだ。
そんな「トムソーヤ」のような日常を送っていた私達だが、夏休みが終わると、自分の進路を決めるという、最初の試練に直面する。私のクラスの担任は、学徒出陣の経験を持つ、青年将校上がりであった。軍隊流に平手でなぐる、チョークで頭を小突く、挙句には皮のスリッパで生徒を殴りつけるのである。今ならマスコミが即飛んでくる事案だが、当時は問題にすらならなかった。私達は何故殴られたか解っていたし、親に訴えたところで、殴られたくなかったら先生の言う事を聞け、で終わりである。恩師の名誉のために付け加えるが、しばしばスリッパで殴られた訳ではない。スリッパが飛ぶのは、大抵、嘘をつくか、下級生や女性をイジメた時だ。私が仲間をそそのかして練習をサボり、新米の女性教諭を泣かせた時には、スリッパの往復ビンタが私の頬に炸裂した。
しかし、私はこの担任が好きであり、尊敬していた。私が東京へ出ようとしたのも、この先生の影響が大きい。口癖は「大志を抱け、東京を見ろ」である。「我がままで、自分勝手で、強情」な母に反発する、私の最大の理解者でもあった。私の外にも、この先生の影響を受けて、東京に出ようとする生徒が何人かいた。
年が明けると、私達も否応なく受験に向けて臨戦態勢に入った。何しろ戦後のベビーブーム世代で、競争相手は多い。そこに私の第1志望校の入試失敗である。先陣を切った私の不合格で、クラスには緊張感が出てきた。誰もが口数が少なくなり、教室の雰囲気が張り詰めた中で、受験戦争に突入である。
昼少し前、自習中の教室に担任が入ってきた。そして私の名を呼び、教員室に来るようにと言った。一瞬私の体が硬直した。私は大きく息を吸い込んで、立ち上がり職員室に向かった。教室の仲間は、第2志望校の発表の日だとは知らない。今回、私は自信を持っていたが、最初が最初だけに一抹の不安もあった。私は取り付けの悪いガラス戸を開け、担任の机に向かった。担任はお袋が届けてくれたぞ、と言って1通の電報を私に渡した。それは神奈川に住む姉からであった。
震えそうな手でそれを開くと、そこには「合格おめでとう」とあった。私は担任に頭を下げ、仲間の待つ教室に戻る。頑張れよ、担任の野太い声が私の背中を押した。
2006/6/5
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