『挫折だけが人生さ』と言うような中年男が感じる、故郷への慈しみを発信します。


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    3畳一間

 昭和38年4月、私は中野区鷺宮に間借りした。時代がかった住宅の2階、3畳一間であった。台所もトイレも大家と共用である。大家一家は国鉄に勤める主人と娘2人。奥さんは既に亡くなっており、家事は高校3年の長女が切り回していた。3畳一間で、家賃は月3000円。当時の相場が1畳1000円と言われていたので、酷く標準的である。この主人とは、4年前まで年賀状の交換をしていた。但し、年賀状をやり取りしていたのは、私ではなく、私の父親であった。そこには1年程しかいなかったが、父親は、息子が間借りしたと言う縁で、40年近く年頭の挨拶をしていたことになる。 寡黙だが几帳面な父親らしい。
 私が杉並区にある高校に進学することになり、父親は知人を頼って下宿先を探した。しかしながら、大学生ならいざ知らず、高校生を下宿させてくれるところはなく、父親自ら上京して見つけたのが、この3畳一間であった。
 結局、私は自炊することになり、電気釜や鍋、茶碗は結婚して神奈川に住んでいた姉が買い揃えてくれた。3畳の部屋には机と電気ゴタツ。それから小さな食器入れ。これで一杯であり、寝る時はコタツを畳んで壁に立てかけて布団を敷く。朝は布団を畳んで押入れに入れ、コタツのテーブルを作る。それが最低限の作業である。
 部屋には窓が2つ。3畳の部屋には似つかわしくないが、東の窓からは一番で朝日が差し込み、北側の窓からはイチジクの木の向こうに畑が見えた。道路一本隔てた隣は練馬区で、田園風景が広がり、都会の景色としては、肩透かしを食ったような気もしたが、ここから私の東京での生活がスタートしたのです。

2006/4/25

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